最近は忙しくなり、外にいる時は食事も手軽にとれるファーストフードを利用することが多くなった。原稿を書くときも打ち合わせをする時も、左手にはシャープペン、そして右手には“ハンバーガー”。よく噛みもせずすぐに飲み込んでしまうので、体にいい訳がない。今夏は久々のダイエットを決意したのに、これではいくらウォーキングしても焼け石に水だ。仕事で原宿や渋谷のマクドナルドを使うと、入口の前で茶髪にTシャツの男女が地べたに座っている光景によく出くわす。なんのことはないテレビでよく見る風景なのだが、その顔は虚ろで生気が感じられない。格好だけは皆オシャレなのに、まるでガイコツがそれを纏ったようだ。食べているものが悪いのか、それとも夢中になれるものがないのか。 フリーターやニートの方から、カウンセリングを求められることがある。ご本人というより、その親御さんからだ。どれも内容は切実である。 「うちの息子は専門学校を中退してからプラプラしている。たまに気が向いたらバイトするだけ。どうすればいいでしょうか」 「娘はこれといって叶えたい夢もなく、最近は悪い仲間とつるむようになってしまった。高校までは手のかからないいい子だったのに」 みんな、最初から道を外れたわけじゃない。 何かに挫折して、ちょっと歯車が狂ったまま“なんとなく”若さを費消してしまっているだけだ。 若さは、いつか衰える。そうなった時にようやく“しまった”と気付く。 そんな“しまった”という思いをしないために、若いうちにやっておくべきことは何か。 それはわかりやすく言えば、「我慢することを覚え、真の実力を身につけること」に他ならない。 まもなく、『団塊の世代』と言われた人々が一斉に定年を迎える。この世代が生まれたのはベビーブームの頃で、今でいう“人余り”の時代だ。多数のライバルと比較されることを宿命づけられた、“会社人間”としての人生。家族を背負い、サラリーのために人生を捧げた“戦士”の生き様。そんな『組織』の中で戦ってきた人々の生き方が、変にカリカチュアライズされてしまっている。堀江貴文や村上世彰といった下品なエセ革命児に煽動され、あたかも「オレ流」に生きることがカッコイイと勘違いしてしまっている世代に、いま一度“人生とはなんたるか”を、大人がきちんと教えなくてはならない。 亀井勝一郎の『青春論』の一文を引こう。 「苦労を避けて通ろうというのは卑怯なことだ。青春は甘やかさるべきものではない。自分で自分を甘やかしてはならない。自由とは峻烈なものだ。(中略)悪い環境こそ、乗り越えねばならぬ障碍物で、実はいい環境だと感じる勇気を、私は青春にほしい。苦労のため、いじけてはいけない。自己を卑下してはいけない。苦労を光栄として厳しく自己を鍛えることが大事だと思う」 人生には、根肥えの時期が絶対に必要だ。 “他人に文句を言われるのは嫌だから、会社勤めは無理。ひとりで気楽に生きたい”というのは、我儘と甘ったれの極みである。長い目で見れば、真綿で自分の首を自分で締めているようなものだ。 人間は歳を取る。歳を取った時に、必ず自分の人生をふと振り返る瞬間がある。そんな時に、自分の心の支えになるのは「自分は若い時、あれだけ苦労したから今があるんだ」というささやかな誇りである。その為には、この“現在”を、自分のスキルを向上させるために生きなければならない。技術でも、魂の誇りでもいい。電車の中で、資格取得の本や英会話のテキストを読むのも立派な勉強である。20歳を過ぎてゲームボーイやプレステに夢中になっているような人間には、申し訳ないが未来はない。この一瞬を、自分を磨くことに集中させよう。そうすれば、必ず自分の人生が輝きだす瞬間がやってくる。それができる人のことを、「社会の役に立つ人間」と言うのである。 明治41年、明治天皇は日露戦争の勝利に酔いしれる国民を戒め、いま一度堅実な生活を尊ぶようにと『戊辰詔書』を発した。そのなかに、“去華就実”という言葉がある。 去華就実(きょかしゅうじつ)・・・・ 外見上の華美を捨て去って、中身を充実させ実際に役立つこと いま、まさに“去華就実”が求められている時代。 外見ではなく人間としての中身を充実させて、真の意味での“充実”を誇れる人生を送ろう。 私もハンバーガーばかり食べず、たまには「青汁」でも飲んで“胃に役立つ”生活でも送らねばいけない、か。 |
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