晴れてよし、曇りてもよし・・・天の試練を享受しながらただこの道を往け
新しい仕事の話で駒込へ行った。すぐに終わったので、思いがけず早くも『東京散策』の第6弾を敢行することにする。まずはJR駒込駅からスタート。天下の山手線沿線の一角を占める駅だというのに、駅前はなんだか兵庫の田舎にずいぶん似ている。駒込橋の向こうに神社が見えたので、歩道を渡り早速参拝へ。ここ大国神社は天明三年の創建で、大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀っているという。御三卿・一橋家当主の徳川家斉は鷹狩の帰りにこの神社に参拝し、後に江戸幕府第11代将軍に就任した。その逸話から、出世大国や日の出大国の別名があるようだ。私にも、家斉公とまでは言わないまでも、ご利益の方はあるだろうか。いつも山手線の車窓から眺めている芥川製菓本社を背にして、本郷通りを東大の方向へ進む。不忍通りを横切ろうとすると、花田文栄堂という老舗の看板屋さんがあった。様々な組織の入口でよく見る看板が、所狭しと飾られている。多くの企業から愛されてきたのだろう。歩道を進むと、なんとも立派な建物が。文京区立・昭和小学校である。昔はここに、建設省の土木研究所があったそうだ。東京散策をして気づいたことは、都内の公立小学校はみな外観が豪華なこと。今更叶わないが、私もこういう小学校に通ってみたかった。
その先を進むと、駒込を代表する特別名勝・六義園が現れた。レンガ塀で覆われた入口は、先日訪れた目白の学習院を思い出させる。五代将軍綱吉時代の大老・柳沢吉保が元禄15年に築園したというから、もう300年の歴史を持つ庭園である。六義(りくぎ)とは、中国の「詩経」のいう詩の六種の分類のことだ。紀貫之は、これを転用して『古今和歌集』の序で和歌の六種の様式を「そへ歌・かぞえ歌・なずらへ歌・たとへ歌・ただごと歌・いわひ歌」と述べた。和歌を好んだ柳沢が命名したのだろう。明治には一時、三菱財閥総帥・岩崎弥太郎の別邸になるも昭和に入って東京府に寄付。名物となっている『しだれ桜』のライトアップは、いよいよ明日から始まるという。今度は、夜に訪ねてみようか。門を出ると、向かい側には『それいけ!アンパンマン』や『ウォーリーをさがせ』で有名なフレーベル館の本社が。子供たちの夢は、やはりこういう上品な街だからこそ生み出せるのだろうか。
お腹が空いたので、そろそろ引き返す。信号待ちの間に、町内会の掲示板を見かける。先程通った小学校の生徒がつくった『あいさつと 笑顔も一緒に プレゼント』という標語が。殺伐とした時代に、この精神が本当の意味で生きていれば結構なことなのだが。駅前に差し掛かった時、『芥川賞受賞作品 三浦哲郎先生作「忍ぶ川」ゆかりの店』という看板がある店を見つける。三浦氏といえば、早稲田の尊敬すべき先輩の一人だ。興味を持ったので、昼飯はここでとることにした。
お店の名は、『思い川』(写真)。鮨を中心とした割烹である。カウンターに座り、生姜焼定食(\800)を注文。このお店にはかつて、人気のあった看板娘がいた。その娘こそが、三浦氏の奥様である。「忍ぶ川」は、作家三浦哲郎の自伝的恋愛小説であったのだ。
三浦氏は、あまりにも過酷な人生を乗り越えた作家として有名だ。6歳の誕生日に次姉が青函連絡船から津軽海峡に入水、同年の夏に長兄が失踪、そして翌年の秋に長姉が服毒自殺。昭和24年に早稲田の政経学部に入るも、翌年春に学費を援助をしてくれていた次兄が失踪。大学は中退となり、郷里で絶望の日々を送った。その後なんとか立ち直り、昭和28年に早稲田の文学部に再入学。そして伴侶との運命の出逢いとなったこの店は、その後の栄光の人生の出発点にもなる。芸術家は不幸を宿命づけられた職業だが、これほど過酷な試練を経た小説家も珍しい。生姜焼を頂きながら、三浦氏の不屈の生き様に改めて敬服した。まだ、76歳でご健在である。益々のご活躍をお祈りしたい。
“幕末の三舟”と称された明治の剣豪・山岡鉄舟(1836~88)が、こんな言葉を遺している。
晴れてよし曇りてもよし富士の山
もとの姿は変わらざりけり
人はとかく自分の幸不幸を周囲の環境のせいにしがちだが、本来あるべき自分をただそのままに生きていけばよい。平常心是道であるー
人生、晴れたり曇ったり。
ただ、己の心に恥じない道を進んでいれば、必ず人生の坂には眩い陽が射すもの。
天から与えられた試練をありがたく享受しながら、今日もただ“わが道”を往こう。

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